2008年08月16日

第4話:強い風と雨

「ぶえっくしょいっ」
 にのべ駅長はまた つばを業務日誌につけそうになった。ガビガビになりかけたハンカチで鼻をかむ。
 急に寒くなったと思ったらもう雨だ。梅雨時にしては珍しく、風もあるし雨粒も鋭い。天井にもそれが落ちる音が響き、花壇の土には穴があきそうだった。
「大丈夫かの……」
 と言いかけてにのべ駅長は、あわてて帽子をかぶり直して右左と示唆点呼しかけた。いま、仕事中なのに、自分は幼いひまわりたちの心配をしてしまったから。−−でも駅長室にはひとりしかいない。古い古いパイプ椅子が、みしりと皮肉った。

 がああっという雨音はなかなか止まなかった。35秒延着した各駅停車は、いそいそとドアを開け閉めする。誰も降りないし、乗ることもないから雨を入れているようなもので。
 いちおう改札口やらに立って、ワンマン電車の後ろのランプを見送って、信号と線路を確認してから、また鼻がむずむずしてきたのでハンカチを取ろうと駅長室に走った。でも途中で、駅の入り口に誰かいるのに気づいて水を靴からこぼした。
 それは見たところ20代くらい、お姉さんくらいの小柄な女性で−−足跡から見ると外の県道を歩いていて夕立に遭った、ようだった。震える白い手には、相応のハンドバックとかはなく、キーホルダーがじゃらじゃらいっぱいついた、携帯電話しか持っていなかった。
 その人はそのまま、小さい足跡を待合場所の木の椅子まで続けた。誰がいるもいないもかまわないそぶりで−−じゃらりと手首をひねる。とりあえず鼻をかんでから、にのべ駅長は様子をうかがおうとした
 ふーっ、というため息がもれて、ぱっと女の人は顔を上げた。右、左、軒先の雨だれじゃなくて、やにっぽい空をうつろにとらえて。−−にのべ駅長はなんとなく紙のダイヤをなぞって彼女を見ていることからからだをそらした。
 ところが女の人はまた外へ飛び出したのである。カツカツと滑りそうなサンダルが鳴って、あわてて呼び止めた。
「ちちちょっとお客さん、まだ雨がやんでないですよ−−」
「だってぇ、」
 女の人は思ったより丸くてあたたかい声だった。小柄でかわいいともいえたけど、声には学生さんほどのきつさがなかった。
「圏外やもん」
「んあ? ケンガイ?」
「やから、ここ、ここ見てみ?! アンテナ、立ってないやろ? 電話が使えへんちゅうことや!」
 リモコンみたいな携帯電話の画面を見せてくれたが、さっぱり意味がわからない。
「−−はぁ……わしには、ようわかりませんわ」
 それでも、女の人は他になんにも持っていないようだったので、とりあえずにのべ駅長はタオルを貸した。出て行くのをやめた彼女は、その端っこで鼻をちょっとかんで、涙目になる。

”カコン、カコン”

「あ」

 電車が近づいてきていた。
「お姉さん、また飛び出さんといてやぁ」
 にのべ駅長はあわててホームに走る。


 もはや通過儀礼のようにドアが開いて閉まる。湿気が入って嫌そうにするおばさんも見えた。たぶん『ニュータウン』駅からのバスに乗り遅れて仕方なく、という感じなのだろう。
 誰もいなくても、扉が閉まるまでを確認して、電車を見送る。−−駅長室の椅子に、カッパをかけっぱなしだった−−もちろん取りになんか行かない。仕事中だから−−彼の、あと何回か、数えるほどになってしまった大事な仕事だから−−遠くなるイチマルサン系のきしみだけがいま、彼のそばにいる。−−むこうの信号まで指差して、制帽をかぶり直した。


 女の人は足をぶらぶらさせてタオルをもんでいた。
「雨は……もうすぐ、上がるやろ」
 返事はなく、もそもそと手は動いていた。もういちどにのべ駅長は、女の人の顔をさっと見てみた。疲れてきっているようだった。
「傘は−−持ってへんかったん?」
「−−−−」

 ちらりと花壇のひまわりを見た。折れたりはしてないようで、ほっとした。

 もうここ何年か、連れの駅員も売店のお姉さんもいなくなって何年か、ひとりでいるのに慣れてしまっていたから、やけに客が多かったり、こういった不思議な人、がいたりするともぞもぞして落ち着かなかった。あのひまわりですら、昔は当然のように花壇にあったはずなのに、いま緑の葉を見ているとおかしい感じがしていた。

 この人には、何かを聞けば、はぐらかされようが、何かを答えてくれるんだろうか。でも、あのひまわりと同じように、からだを守ってあげるだけにした。−−ちり紙を渡した。

 今までにも、こんなことがあったような気もする。突然雨が降ってきて傘を貸したことも2度3度じゃないはずだ。蜂が迷い込んできて こどもがびえびえ泣き出したこともある。酔っ払ったおっちゃんのケンカを止めたことも。この駅の、できたての頃からいるんだから、もちろん駅舎の傷のひとつひとつを、知っている。
 でも、その時どんな言葉をかけていたか、かけてあげていたかまでは、つまみ出せなかった。日誌に記されることもなく、こぼれ落ちていった、この駅の生きている時間。

 壁がきゅるりと鳴った気がして、にのべ駅長はじっとりと汗をかいた。

 同じように、同じように、同じことをして、逆向きのイチマルサン系を見送る。
 同じように、同じように−−いや。
 天気はいつも違った。空のかたちは、雲の色だって、いつも違った。
 大事な人の誕生日にも、大事な人が先にいなくなった日にも、手振りが大きくなっていたはずだ。誰かの、ために。

 ひとりになって、話す相手がいなくなったから、話せなくなったんじゃなくて。
 話そうとしなくなったから……

「信号、良し」
 心をこめて、声を出したとき、湿った空気がふるえた。


「お客さん」
 切符を持っていない客は、顔を上げる。
「もし、もし何ぞ(なんぞ)悩みごとあって、手をつくしても八方塞がりになっとるいうんやったら−−関係もない私が割り込むのは申し訳ないことです? でもな−−でもな−−、誰にも、何にも(なんにも)、言わんままに、ひとりで悩みを身体の中で回し続けてるんと違いますか?」
「−−−−−−」
 じゃらり、とキーホルダーがこすれた。
「わしは役務があるから、あの、駅長室にいます。それでも、よう声は通りますよって−−話しても(はなしても)かまへんことやったら、−−ああ言葉のつながりとか、そういうのも考えやんでええし、すこしでも心のうちを言うてみませんか?」
「……」

 にのべ駅長は半分嘘をついていた。駅長室に入り込んでしまうと、ホームからの音の方が大きくて−−外側の窓を閉めるか、窓口まで来てもらうかしないと、話し声はよくわからないのだ。ましてや雨の音がある限り、彼女が話していることを全てききとげることはできない。
 かさかさと、女の人の声がしているのはわかった。いま、あの人の悩みをきいてあげているのは、水を含んだ、古い駅舎だった。
 にのべ駅長よりももっともっと、みんなのことばを聞きつづけてきたはずだ。

 にのべ駅長は日誌を開いて、女の人のことをやんわりと備考欄に入れた。このかた何年も、そこにペンを持ってくることはなかったから、これを見たコクテツ本社の人たちはびっくりするだろうかとちょっと笑った。
 女の人はまだ口をもそもそさせていた。目があったから、ほほえんで「大丈夫」とあいさつした。今度は踏切が鳴るよりも早く、ホームに出なければいけない。−−空はだいぶん明るくなってきていた。


 あと2度ほど雨が来てゆけば、夏になる。そして、夏になれば
−−この駅の終わりはもうそこまで来ていた。
 刻み付けるように、にのべ駅長は手を振り、歓呼確認し、ランプを見送る。最後の日まで、最後の日までは−−雨は少しなまぬるい感じがした。



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